一、祭 神>

 大和武尊
(やまとたけるのみこと)

 素盞鳴尊
(すさのおのみこと)

 宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)

一、由 緒

 松原神社は近衛天皇久安年間の歓請との伝あるも創祀の時期は不明。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、 故に鶴の森明神と称していたともいうが、一説には当社は山王原村松原にあったとも言われ、後奈良天皇天文年間、 山王原村海中より金佛の十一面観音が松原に出現、託宣により当社へ祀ったことから神号を松原大明神と称したともいう。
 その後北條氏が小田原を治めるに至り、社領を寄進するなど代々当社を崇敬した。 天文十四年三月、小田原海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、北條氏康これを聞き、吉兆なりとて参詣、 鏡を取寄せて亀の甲に置き、亀鏡は即ち目出度きいわれありと一門悉く招いて万歳の祝盃を給い、大亀を海へ放ちて後、 同月二十二日社前にて四座の太夫により法楽能七番、次いで泰平楽にて舞い納めしめたという。
 元亀三年五月には社中酒掃の掟書を出し、岡本越前守を検使として厳密な御沙汰があり、町方より百人の人出で 境内の掃除に当たったという。寛永九年より稲葉氏、貞亨三年より大久保氏の領地となるも尊崇の念は変わらず、 社費は総て藩財を以てこれにあて、代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、 明治六年一月県社に列せられ今日に至る。

一、祭 事

 幾多の変遷あるも古くは多く正月十四・十五日を例祭とし九月九・十日を小祭 とし、 明治四十二年より正月十四・十五・十六日と定めたが、第二次大戦後再び 変遷を繰返している。 祭日には年番町を定めて当社の大御輿をかつぎ、浜下りの 神事のあと各町を回り、各町また山車、 屋台、御輿を出す。 松原神社例祭は小田原最大の祭りとして知られ、 山車で奏する小田原囃子は江戸葛西囃子の流れを汲むものとして 氏子中古新宿に生まれ広く近隣に囃され近年多古保存会が 神奈川県無形文化財に指定 されている。

一、末 社

 境内に古くは十二社があったが、現在は住吉神社、鹿島神社、手置神社、稲荷神社、 八幡神社の五社が祀られている。

松原神社宮司 村上 冨二 記

日 付 行 事 内 容
1月 元旦祭 初詣が行われます
2月 節分祭
5月3日 北條五代祭り 小田原市のイベントに参加
松原神社例大祭 各町内神輿の御霊入れ
5月4日 松原神社例大祭 本社神輿町内渡し・町内神輿渡御
5月5日 松原神社例大祭 本社神輿町内渡し・宮入
9月 松原神社小祭
松原神社例大祭は小田原市内最大のお祭りです。

 小田原市の総鎮守の氏神松原神社は明治以後たびたび祭典の日を変更した。 春祭りは一月十四日、十五日の両日に創社以来何百年も決まっていたものであるが、明治元年から祭日が変動し始めた。
ただしこの年の場合は止むを得なかった事で、明治元年一月一日に入ろうとする前日の慶応三年十二月の大晦日に 上幸田の小田原藩士嶋村又一方から出火して町内の大火とった。
この年五月戊申箱根戦没が起きて大騒ぎとなり、人心兢々のうちに日が過ぎて十一月十八日 に祭典を行ったのである。
 明治二年には古例の通り正月十五日に行ったが、それより数年して明治五年に何故か三月に改めたところ、 明治六年にはまた一月十五日にかえし、明治七年にまたまた四月 十八日になった。
 これ以降も変遷を続け、やっと安定したのが明治四十二年で、この時古例の一月十四・十五日の両日の上に十六日を加えて三日間と定めた。 これが大正から昭和二十年代までそのまま続いて来たから、もうこのままで永久に行くのかと思ったらそうではなかった。
 その後四月十四日、十五日、十六日の三日間になり、現在では五月の三日、四日、五日 の三日間となっている。 こんなに祭日が変更される神社は少ないのである。

 神輿の担ぎ方は「方言」等と同様に各地方によりまちまちです。良く知られている担ぎ方に「江戸前」が上げられます。 小田原流は神輿の担ぎ棒は井形(4本棒)で江戸前と同様ですが、担ぎ方は大変異なり独特です。 もともと発祥は漁師が担いだと言われ、かけ声も全て漁師独特の網引きで行われます。 また漁木遣が掛けられ、木遣唄が終わると神輿が走る「つっかける」のが特徴です。

網引きのかけ声は、オイサー、オリャサー、とかけ声を発し、船の上から定置網を引きますが 昔は現代の様に機械で簡単に網を引く訳ではありませんから、皆揃って網を引く為にかけ声を必要としました。 また、徐々に網が上がってくると網を引く手もつかれてきますので、木遣唄がどんどん掛けられていきます。 また、小田原流で特徴があるのは走る時以外は平担ぎで通常歩行と同じといわれているが、実は神輿を左右にゆっくりと練る様は、 船が沖合で波に揺られている様を模していて、実に優雅で見ている者の心を捉え、小田原流ならでわの担ぎ方の一つの特徴といえる。

 戦国時代から江戸時代にかけて、小田原地方の漁業は飛躍的に発展したと言われる。江戸時代初めの漁業関係の記録を見ると、 早川・山王原・酒匂・小八幡等に舟役が課せられた事が記されており、舟や漁民の数が増加した事が推測される。  また、1654年(承応三)の記録には、千度小路が早川村から漁獲高の三分の一の場代でうずわ網場を借りた事が記されている。 四艘張網(よそばりあみ)、鰤網(ぶりあみ)、棒受網(ぼうけあみ)、立網(たちあみ)、手繰網(てぐりあみ)、 平目網(ひらめあみ)等網の種類も豊富である。
 特にそのうち四艘張網(よそばりあみ)は根拵網が現れるまで最も有力な網として普及していたもので、 四ツ手網のような四角い大網を海底に密着して敷設して、魚群が来るのを待ち、魚群が中に入ると網の四隅を持っている舟上の 大勢の船子たちが、掛声も勇ましく網を引き上げると言うものである。
記録によれば、1680年代(貞享年間)には根府川から真鶴までの地先に十六畳も張られていた。

 さて、山車の上で奏でる「小田原囃子」は広く近隣地区で囃され、遠くは神奈川県を越え静岡県まで伝わって今なお 祭りで囃されています。ところが、神輿の小田原流はどういうわけかあまり近隣地区で担がれると言う事は聞きません。 最近では小田原でも「江戸前」「どっこい」を規制し、小田原流を行う様に求める声が上がっています。

地区 地区名 ひらがな Alphabet
龍宮神社 千度小路 せんどこうじ Sendokoji
龍宮神社 古新宿 こしんしゅく Koshinsyuku
1区 城山 しろやま Shiroyama
2区 駅前 えきまえ Ekimae
3区 下幸田 したこうだ Shitakouda
8区 薹宿 だいじゅく Daijyuku
9区 白菊 しらぎく Shiragiku
10区 七枚橋 しちまいばし Shichimaibashi
11区 新玉 あらたま Aratama
12区 御幸町 みゆきちょう Miyukicho
13区 抹香町 まっこうちょう Makkocho
14区 新宿 しんしゅく Shinsyuku
15区 北條稲荷 ほうじょういなり Hojoinari
16区 上若 かみわか Kamiwaka
17区 萬町 よろっちょう Yoroccho
18区 高梨町 たかなしちょう Takanashicho
19区 唐人町 とうじんちょう Toujincho
20-1区 一丁田 いっちょうだ Icchoda
20-2区 青物町 あおもんちょう Aomoncho
21区 大手前 おおてまえ Ohtemae
22区 宮之前 みやのまえ Miyanomae
23区 魚がし うおがし Uogashi
24区 代官町 だいかんちょう Daikancho
25区 茶畑 ちゃばたけ Chabatake
26区 本町 ほんちょう Honcho
27区 本丸 ほんまる Honmaru
28区 筋違・欄干橋 すじかい・らんかんばし Sujikai-Rankanbashi
32区 西海子 さいかち Saikachi
松原神社氏子二十八ヶ町を記載

 松原神社は小田原総鎮守と言われるが、海岸に近く特に漁民信仰に篤く、神輿は漁民によって担がれる。 以下に紹介の木遣唄は、「漁木遣」「浜木遣」または「木遣」とも呼ばれ、詞型は珍しい八八の短調。 その詠唱法は木遣に準拠している。

木遣唄の歌詞(数え唄)
一で大山や・石尊さまだ
二で日光のや・東照宮さまだ
三で讃岐のや・金毘羅さまだ
四で信濃のや・善光寺さまだ
五つ出雲のや・色神さまだ
六で六角堂のや・六地蔵さまだ
七つ成田のや・御不動さまだ
八つ八幡のや・八幡さまだ
九つ高野のや・弘法さまだ
十で当地のや・氏神さま
氏神さま
松原様、明神様と置き換え唄う事がある

 まず一人の音頭取が声を張り上げて”ソーリャーエー”と掛け声を発し、 続けて”木遣しゃにぶても”と唄う。 すると、漁船の舷側に並んだ大勢の漁夫達が 網綱をつかんで”ソラヤットコセー”と、音頭取りに応答するように斉唱する。 音頭取りが”掛け声頼むぞ”と唄うと、漁夫達は一斉に”ヨイヤ、ヨイトコセ、 ヨイトコセ”とハヤシ言葉を掛けながら、 三節に分けて網を引く。

 その声は怒涛のような強さとリズム感に溢れ、この重労働を加勢する。漁夫 達は手を休め、音頭取りが唄う。 その繰り返しが続き次第に網が引き上げられ、 網の中で、銀鰤の踊るのが見えてくる。

数え唄以外の木遣唄の一例
木遣しゃにぶても・掛け声たのむぞ
ひとしめ締めれば・万両の株だぞ
黒金山でも・人数にゃかなわぬ
わたしゃ小田原・荒波育ち
前は相模灘・うしろは箱根だ
めでためでたの・若松さま
一締めしめればや・掛け声たのむぞ
富士の白雪きゃや・朝日でとけるぞ
千両万両のや・宝の船だ
娘と茶碗はや・一度は割れる
娘と島田はや・情けでとける
引いても引いてもや・カンタが見えぬぞ
引いても引いてもや・鰤敷大漁だ
三十三間堂のや・柳のお柳さんだ
姉は二十歳でや・妹は十九だ
吉田通ればや・二階から招くぞ
沖のカモメはや・大漁の標しだ
荒磯荒波や・しぶきの華咲く
皆さま頼むぞよ・力を合わせて
鰻の掌昇りはや・ツルツル昇るぞ
小田原囃子はや・トンビが唄うぞ
波のしぶきはや・御幸ヶ浜だぞ
惚れて通えばや・千里も一里だ
小田原港はや・入船出船だ
粋でいなせのや・若い衆たのむぞ
響け木遣り唄よ・さつきの空に
黒金山 沢山の魚が網にかかり、引き上げた時に魚が躍っている様
カンタ 網底の終焉(重り)
吉 田 女郎通りを歩くと女郎屋の2階から遊女が誘いをかけてくる様
とんび 小田原囃子の笛の音はトンビが鳴いている様に聞こえる事
御幸ヶ浜 荒久海岸から続く小田原の海岸の名前
小田原港 現在の早川築港ではなく、山王原・古新宿・千度小路にあった港


 木遣唄は鳶職の専用歌曲の様に思われている。しかし、本県(神奈川県)の場合、 特に相模灘沿いの漁民集落の祭礼にあたり、神輿・山車の曳行に附随して木遣の 唄われることは特徴的である。三崎・松輪・横須賀佐島・小田原では神輿巡幸の 最初に担ぎ上げの儀式唄として唄われる。
また、特に指摘されるのは小田原漁民が木遣を祭礼の儀式唄だけでなく、実際の 仕事唄として海上の網上げに用いている事実である。 他に類例が無い。

 木遣は大木・大石を曳く場合の仕事唄に源を発し、更に重量の船おろし・船引きにも 用いられた。漁民の仕事は重労働であって、それを加勢するためには単独の音頭取と、 それに和する大勢の掛声を伴う木遣の曲節が必要であった。
 海の労働に木遣の使われる理由の他の一つに、海神信仰がある。木遣が木霊信仰に 源を発した様に、漁民は「船底一枚下は地獄」の観念から、 その歌詞の中に多く海路神の名を詠み込んでいる。

あらすじ
とあるきっかけから故郷に帰省する事になったハナであった。十年の時を経て久しぶりに親友と再会する事になるが・・・
地元の松原神社例大祭を通して関わる三日間は、あまりにもつかの間に過ぎてゆく。
小田原を舞台に繰り広げられる再会は、あたかも祭典真っ最中のゴールデンウィーク。そして、二人に待ち受ける祭典フィナーレの結末とは。

著 者:山口 仁
ISBN978-4-600-00115-5

 2018年11月、とある一通の電子メールから全てが始まりました。そのメールには神社に関する質問が書かれていて、 当ホームページをご覧になられた方から、詳しい神社の祭典について知りたいと問い合わせがあったのです。
もちろん初めは電子メールで質問の回答をさせていただいておりましたが、記載してゆくうちに、どうせなら私が知っている 松原神社例大祭の全てを書物として残せたら良いのではと思い、少し文章をまとめ始めてみました。
暫くまとまった文章を自分で読み返してみると、正直これほどつまらない書物は他には無いと思ったのです。 長文の文章を読むという行為は、読者によほどの好奇心を与えられなければ完読は難しい事実は、私自身数々の書物を拝読していて 充分わかっている事でした。どれほど素晴らしい内容で文章に残せても誰も読んでもらえない物であるなら、 その書物は全く意味が無いという事に気づいた私は、コンセプトを最初から立て直し読者の好奇心をそそる部分をフィクション化して 物語を形成しました。
 この小説に記載された登場人物以外の背景や出来事は全てノンフィクションです。途中ハナが見る夢の中の話も、 筆者が実際に本当に見た夢であり、筆者の英語版ブログの2018年2月4日に見た夢の内容が記載されています。 また、筆者は水泳のコーチも務める程の水泳好きで、真夏の御幸ヶ浜では大時化の海に入っても何ともない程、泳力には 自信があります。 作中に出てくるハナは誰も入らない御幸ヶ浜の海で昔良く泳いだという部分も実際の事柄です。
 松原神社の例大祭をご存知である方のみならず、まったくご存知無い方にも是非この小説を読んでいただき、 小田原の祭りがこの様に独特なものであるという事を知っていただければ幸いです。
 現在「小説 鳳凰の羽」はAmazonにて電子書籍をご購入いただけます。



小田原市本町2−10−16


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